座談会「人との出会い、つなぐ心」佐藤しのぶ+森島英子+中山欽吾
2010年01月21日
一流の芸術家によるパフォーマンスを県民に贈る「GEITAN presents The Great Artists」は、「芸短フェスタ2009」のメイン行事です。今回は、世界的にも著名な音楽家である佐藤しのぶさんに登場いただき、11月20日、iichiko音の泉ホールで『佐藤しのぶソプラノリサイタル~人の心をつなぐプリマドンナ』を開催しました。第1部「團伊玖磨の世界」に続き、第2部「カルメン」では、本学音楽科の行天祥晃准教授(東京二期会)も賛助出演。ピアノの森島英子さんともあわせ、3人の息のあった舞台に満員の観客が魅了されました。
リサイタルの前日、本学の中山欽吾学長(写真=中央)と佐藤しのぶさん(写真=右)、森島英子さん(写真=左)の3人で座談会を開きました。オペラ研修所でのこと、イタリアでの留学・国際交流のこと、大分とのつながり、若き芸術家や大分県立芸術文化短期大学へのメッセージなど、話題は次々と広がりました。
3人に共通する~中山悌一先生~の思い出
中山)私と悌一(中山悌一1920,2.6-2009,9.29:二期会創設者、中山学長の養父)という親子関係は切っても切れないことで、その悌一としのぶさんがまた切っても切れないご縁があり、森島さんも悌一と靖子(悌一の妻、ピアノ・東京芸大名誉教授)との浅からぬご縁がありました。多くの縁があって、こうして大分に来ていただき、リサイタルを行っていただくことになりました。私自身も感慨無量なところがありますけど、それぞれの出会いを思い出話なども含めて、また芸術をめざす学生たちへのアドバイスも含めてお伺いできたらと思っています。
佐藤)大分にお招きくださった大学に感謝しますし、こういう機会をつくって頂いたことにも本当に感謝いたします。
中山)私が悌一からしのぶさんについて聞いていたのは、とにかくしのぶさんという、すごい才能が花開いた女性がいるというのを自慢していたことです。しのぶさんから見た中山悌一像はどうでしたか。いい意味でも悪い意味でもワンマンで、また力もあったようですが。
佐藤)中山(悌一)先生は私にとって神様でした。神様といっても、ギリシャ神話に例えれば全知全能のゼウスにあたります。先生との出会いがなかったら今の私はありませんし、本当に先生がいらした時代に自分が生まれることができて、そんなに長い時間ではなかったけれども、中山先生と直接お目にかかれて個人的にもレッスンを受け、研修所でも色々なことを学ばせて頂けたことは、自分にとって一番大きな宝物だと思っています。先生が亡くなられて、私にとって、ひとつ自分の人生が終わったような気がしているくらいです。
中山)それは大変重い言葉だと思いますね。私も悌一がいなかったら二期会の仕事はやっていなかったでしょうし、二期会の仕事をやっていなければ芸短大の仕事もお呼びすらかかっていないでしょうし、大分に戻ることもなかったかも知れません。いろんな意味で悌一の存在というのは我々にとって共通のことだったのでしょうね。今回、この「芸短フェスタ」プロジェクトの途中で亡くなったというのも、ひとつの象徴的な話かもしれませんね。僕自身には、我々が次の世代へバトンタッチを受けたという気持ちがあるんです。
佐藤)大分にお招きくださった大学に感謝しますし、こういう機会をつくって頂いたことにも本当に感謝いたします。
中山)私が悌一からしのぶさんについて聞いていたのは、とにかくしのぶさんという、すごい才能が花開いた女性がいるというのを自慢していたことです。しのぶさんから見た中山悌一像はどうでしたか。いい意味でも悪い意味でもワンマンで、また力もあったようですが。
佐藤)中山(悌一)先生は私にとって神様でした。神様といっても、ギリシャ神話に例えれば全知全能のゼウスにあたります。先生との出会いがなかったら今の私はありませんし、本当に先生がいらした時代に自分が生まれることができて、そんなに長い時間ではなかったけれども、中山先生と直接お目にかかれて個人的にもレッスンを受け、研修所でも色々なことを学ばせて頂けたことは、自分にとって一番大きな宝物だと思っています。先生が亡くなられて、私にとって、ひとつ自分の人生が終わったような気がしているくらいです。
中山)それは大変重い言葉だと思いますね。私も悌一がいなかったら二期会の仕事はやっていなかったでしょうし、二期会の仕事をやっていなければ芸短大の仕事もお呼びすらかかっていないでしょうし、大分に戻ることもなかったかも知れません。いろんな意味で悌一の存在というのは我々にとって共通のことだったのでしょうね。今回、この「芸短フェスタ」プロジェクトの途中で亡くなったというのも、ひとつの象徴的な話かもしれませんね。僕自身には、我々が次の世代へバトンタッチを受けたという気持ちがあるんです。
スターの登竜門、オペラ研修所と團伊久磨先生
中山)しのぶさんは、二期会が文化庁からお預かりしていたオペラ研修所時代の修了生のおひとりですよね。
佐藤)はい、そうです。
中山) 二期会でのオペラ研修所は全部で11期ありましたかね。オペラ研修所の2年間というのは、才能を開花させる何かがあったのでしょうか。巣立った人たちのその後のキャリアって凄いですよ。森島さんも関与されていましたよね。
森島)ええ、私は1期から11期まで全部携わっていました。
中山)いろんな人生があるなかで、これだけ日本のオペラ界を支えた歌手たちを輩出しているということは、その期間に何を学んでおられたかというのと関係があるんじゃないですか。
森島)2年間に10名、それも全国からです。まずこの10名に選ばれるという時点で、「才能がある」ということがスタートにありますね。それから週に3日間、朝から夕方まで音楽から踊りからお芝居まで、そればかりやるわけですから。その2年間の密度の濃さというのは凄いものがあると思います。先生方の期待もとても大きかったですし。そういった全てのことが、才能を開花させる要因だったと思います。
中山)「週に3日」といいますと、「毎日じゃないのですか」と言われることもあるけど、今の研修所でも週に2日でしょう。でも、そこで集中的に学んだことを自分のものにしていくという時間はそれぞれの人たちに任されている。これが大切なんですよね。
芸短大の学生は入学した年と卒業する年しかないわけですけど、その2年間でポンと飛ぶ。成長するんです。2年間の密度はとても濃いものです。もちろん朝から晩まで講義を受けるわけではないけれど、密度を濃くするだけの集中的な勉強というのがあって、飛躍的に上がっていくんです。私はよく授業を見学に行きますが、1年生の授業と2年生の授業に出ていて、その差の凄さを感じます。「1年でここまで成長するのか」と驚嘆しますよ。芸短大もオペラ研修所も、奇しくも両方とも2年間ですが、オペラ研修所でもそういった感じだったのでしょうか。
森島)しのぶさんは特に成長が凄かったです。入学してきた時は最年少だったんですよ。先輩方は既に舞台にも立っていて、その上で入所してきたのに、卒業するときは一番でした。その進歩というか、成長というか、凄かったですよ。
中山)それがあってキャリアのスタートを切られたわけですが、その研修所時代は悌一も教えていたと思いますが、二期会の先生方だけじゃなくてオールジャパンの素晴らしい方々に囲まれていたというのも大きいと思います。明日のリサイタルでは團伊玖磨さん(1924,4.7- 2001,5.17、作曲家・エッセイスト)の曲を歌われますよね。團伊玖磨さんは当時、所長でしたので今回の選曲はそういったところからもあるんじゃないですか。團さんは凄くダンディだし、ものを書かせたら才能もおありだし、数々の名曲を作られていますよね。本当に素晴らしい方だったと思いますが、團先生にはどういった思い出がありますか。
佐藤)私は研修所に入れる筈じゃなかったんです。大学を卒業して、その時に教員採用試験に受かっていましたので、中学校の音楽の先生になることが決まっておりました。そういう意味では、佐藤家はうまくいっていたんですよ。学校の先生をしながらお見合い結婚をして幸せになる、父はとてもそのことを望んでおりました。
ところがオペラ研修所を「受けるだけ受けてみたら」というお話があり、受けてみたら奇跡的に合格させて頂けたんです。そして入学の初日にお目にかかったのが團伊玖磨先生でした。「私が所長の團伊玖磨です」とおっしゃった時に、本当に失礼なんですけど、教科書に載っていらっしゃる滝廉太郎、山田耕筰、團伊玖磨というイメージで。あのような方々ってもう御存命でいらっしゃらないと思っていたんですよ。ですから、とうにお亡くなりになられた偉人、伝記上の偉人だと思っていたのに、目の前で喋っていらっしゃるでしょう。「あれ?生きてらっしゃる(笑)。お話なさってらっしゃる。教科書に載っている、あの團伊玖磨先生が所長なのだろうか」と。驚くほど本当に偉大な方が、私たちの所長だったんですよね。
佐藤)はい、そうです。
中山) 二期会でのオペラ研修所は全部で11期ありましたかね。オペラ研修所の2年間というのは、才能を開花させる何かがあったのでしょうか。巣立った人たちのその後のキャリアって凄いですよ。森島さんも関与されていましたよね。
森島)ええ、私は1期から11期まで全部携わっていました。
中山)いろんな人生があるなかで、これだけ日本のオペラ界を支えた歌手たちを輩出しているということは、その期間に何を学んでおられたかというのと関係があるんじゃないですか。
森島)2年間に10名、それも全国からです。まずこの10名に選ばれるという時点で、「才能がある」ということがスタートにありますね。それから週に3日間、朝から夕方まで音楽から踊りからお芝居まで、そればかりやるわけですから。その2年間の密度の濃さというのは凄いものがあると思います。先生方の期待もとても大きかったですし。そういった全てのことが、才能を開花させる要因だったと思います。
中山)「週に3日」といいますと、「毎日じゃないのですか」と言われることもあるけど、今の研修所でも週に2日でしょう。でも、そこで集中的に学んだことを自分のものにしていくという時間はそれぞれの人たちに任されている。これが大切なんですよね。
芸短大の学生は入学した年と卒業する年しかないわけですけど、その2年間でポンと飛ぶ。成長するんです。2年間の密度はとても濃いものです。もちろん朝から晩まで講義を受けるわけではないけれど、密度を濃くするだけの集中的な勉強というのがあって、飛躍的に上がっていくんです。私はよく授業を見学に行きますが、1年生の授業と2年生の授業に出ていて、その差の凄さを感じます。「1年でここまで成長するのか」と驚嘆しますよ。芸短大もオペラ研修所も、奇しくも両方とも2年間ですが、オペラ研修所でもそういった感じだったのでしょうか。
森島)しのぶさんは特に成長が凄かったです。入学してきた時は最年少だったんですよ。先輩方は既に舞台にも立っていて、その上で入所してきたのに、卒業するときは一番でした。その進歩というか、成長というか、凄かったですよ。
中山)それがあってキャリアのスタートを切られたわけですが、その研修所時代は悌一も教えていたと思いますが、二期会の先生方だけじゃなくてオールジャパンの素晴らしい方々に囲まれていたというのも大きいと思います。明日のリサイタルでは團伊玖磨さん(1924,4.7- 2001,5.17、作曲家・エッセイスト)の曲を歌われますよね。團伊玖磨さんは当時、所長でしたので今回の選曲はそういったところからもあるんじゃないですか。團さんは凄くダンディだし、ものを書かせたら才能もおありだし、数々の名曲を作られていますよね。本当に素晴らしい方だったと思いますが、團先生にはどういった思い出がありますか。
佐藤)私は研修所に入れる筈じゃなかったんです。大学を卒業して、その時に教員採用試験に受かっていましたので、中学校の音楽の先生になることが決まっておりました。そういう意味では、佐藤家はうまくいっていたんですよ。学校の先生をしながらお見合い結婚をして幸せになる、父はとてもそのことを望んでおりました。
ところがオペラ研修所を「受けるだけ受けてみたら」というお話があり、受けてみたら奇跡的に合格させて頂けたんです。そして入学の初日にお目にかかったのが團伊玖磨先生でした。「私が所長の團伊玖磨です」とおっしゃった時に、本当に失礼なんですけど、教科書に載っていらっしゃる滝廉太郎、山田耕筰、團伊玖磨というイメージで。あのような方々ってもう御存命でいらっしゃらないと思っていたんですよ。ですから、とうにお亡くなりになられた偉人、伝記上の偉人だと思っていたのに、目の前で喋っていらっしゃるでしょう。「あれ?生きてらっしゃる(笑)。お話なさってらっしゃる。教科書に載っている、あの團伊玖磨先生が所長なのだろうか」と。驚くほど本当に偉大な方が、私たちの所長だったんですよね。
指揮者・限田茂夫さんとの出会い、大分との縁
中山)しのぶさんは、のちに現田茂夫さん(指揮者)とご結婚されました。実は現田さんとは、私が二期会に入って最初に立ち会ったのが大分の総合文化センターのオープニングの時に開催した『こうもり』で、その時に現田先生に指揮をしていただいたんです。
佐藤)そうでしたか。それはお世話になりました。
中山)その時に初対面で私も魅了されましてね、本当に素晴らしい方で。その後も現田先生とはこちら大分の『第九を歌う会』で、ご一緒されたがありますよね。
佐藤)ええ、あります。
中山)ずいぶんたくさん大分で指揮をして頂いているわけで、大分とのご縁も浅からぬものがありますね。しのぶさんは大分でも本当に人気がありますよ。明日のリサイタルでもチケットはほとんど完売していると聞いていますし。
佐藤)本当にありがとうございます。そのお陰で、うちは毎年おいしいカボスを送って頂いています。カボスは東京では買えないんですよ。凄く美味しくってね、絞ってお酒に入れてもいいし、そのままジュースにしてもいい。お魚にも相性がいい。本当に重宝しています。たくさん頂くのでご近所にお配りして、皆さんに喜んで頂いています。
中山) それで、現田さんとの馴れ初めを聞かせてもらえますか。
佐藤)あまりに昔ですけど(笑い)。やっぱりオペラの時でした。初めてデートするようになったのは、二期会公演の『トスカ』が終わった後ですね。『トスカ』の時に指揮のアシスタントをしていまして、その後おつき合いするようになったんです。一番印象的だったのは『こうもり』なんですよ。長野で彼が『こうもり』を振らせて頂いた時、もともとロザリンデ役は私ではありませんでした。ただ、具合いが悪くなられた方がいまして、それで急きょ私が歌ったんです。栗山先生(栗山昌良、オペラ演出家、文化功労者)の演出だったんですけど、その時に結婚の話を栗山先生に申し上げたら「わかった、僕にまかせなさい」っておしゃって、立ち会い人になって頂くことになりました。その話がみんなに広がったのがちょうど奇しくも『こうもり』だったんですね。
中山)『こうもり』には何かの縁があったのでしょうね。佐藤さんの二期会でのオペラは『トラヴィアータ(椿姫)』から始まって、その次が『こうもり』でしたか。
佐藤)『メリー・ウィドー』が先で、その次が『トラヴィアータ』でしたね。
中山)ああ、そうでしたね。ずいぶん二期会でもいろいろ歌ってもらっていますけど、やっぱり『トスカ』とかね。
佐藤)『トスカ』で私、飛んだんですよ。
森島)あれは本当に飛んでた。
中山)実はあれ、私も見てるんだよ。
佐藤)最後の飛び降りるところだけをNHKが撮っていたんですよ。私、テレビで見たら、本当に水平飛行していました。あれだけはね、みんながあっと驚いていましたね。
中山)あれにはやっぱり私も凄い思い出がありましてね。僕がちょうど東京に転勤で来た時の話で、悌一から「二期会のオペラぐらい見ろよ」と言われてね。当時、二期会の仕事をするなんて夢にも思っていなくて、それで見に行った最初の何本かなんですよ。
その時は佐藤しのぶが誰かなんて分からないで、私にとってのオペラがスタートしましたけど、「凄い人がいるな」と思った。それで悌一に聞いたら、「ああ、しのぶだろう」って、話が始まり出して止まらなかったんだね。それからあとは、紅白歌合戦に連続して出られて、あれよあれよと売り出してきた。もう二期会では面倒見切れなくなり、逆に言えばそこから巣立って行かれたという言葉が妥当かどうか分かりませんけど、飛び立って行かれたわけですけどね。
佐藤)そうでしたか。それはお世話になりました。
中山)その時に初対面で私も魅了されましてね、本当に素晴らしい方で。その後も現田先生とはこちら大分の『第九を歌う会』で、ご一緒されたがありますよね。
佐藤)ええ、あります。
中山)ずいぶんたくさん大分で指揮をして頂いているわけで、大分とのご縁も浅からぬものがありますね。しのぶさんは大分でも本当に人気がありますよ。明日のリサイタルでもチケットはほとんど完売していると聞いていますし。
佐藤)本当にありがとうございます。そのお陰で、うちは毎年おいしいカボスを送って頂いています。カボスは東京では買えないんですよ。凄く美味しくってね、絞ってお酒に入れてもいいし、そのままジュースにしてもいい。お魚にも相性がいい。本当に重宝しています。たくさん頂くのでご近所にお配りして、皆さんに喜んで頂いています。
中山) それで、現田さんとの馴れ初めを聞かせてもらえますか。
佐藤)あまりに昔ですけど(笑い)。やっぱりオペラの時でした。初めてデートするようになったのは、二期会公演の『トスカ』が終わった後ですね。『トスカ』の時に指揮のアシスタントをしていまして、その後おつき合いするようになったんです。一番印象的だったのは『こうもり』なんですよ。長野で彼が『こうもり』を振らせて頂いた時、もともとロザリンデ役は私ではありませんでした。ただ、具合いが悪くなられた方がいまして、それで急きょ私が歌ったんです。栗山先生(栗山昌良、オペラ演出家、文化功労者)の演出だったんですけど、その時に結婚の話を栗山先生に申し上げたら「わかった、僕にまかせなさい」っておしゃって、立ち会い人になって頂くことになりました。その話がみんなに広がったのがちょうど奇しくも『こうもり』だったんですね。
中山)『こうもり』には何かの縁があったのでしょうね。佐藤さんの二期会でのオペラは『トラヴィアータ(椿姫)』から始まって、その次が『こうもり』でしたか。
佐藤)『メリー・ウィドー』が先で、その次が『トラヴィアータ』でしたね。
中山)ああ、そうでしたね。ずいぶん二期会でもいろいろ歌ってもらっていますけど、やっぱり『トスカ』とかね。
佐藤)『トスカ』で私、飛んだんですよ。
森島)あれは本当に飛んでた。
中山)実はあれ、私も見てるんだよ。
佐藤)最後の飛び降りるところだけをNHKが撮っていたんですよ。私、テレビで見たら、本当に水平飛行していました。あれだけはね、みんながあっと驚いていましたね。
中山)あれにはやっぱり私も凄い思い出がありましてね。僕がちょうど東京に転勤で来た時の話で、悌一から「二期会のオペラぐらい見ろよ」と言われてね。当時、二期会の仕事をするなんて夢にも思っていなくて、それで見に行った最初の何本かなんですよ。
その時は佐藤しのぶが誰かなんて分からないで、私にとってのオペラがスタートしましたけど、「凄い人がいるな」と思った。それで悌一に聞いたら、「ああ、しのぶだろう」って、話が始まり出して止まらなかったんだね。それからあとは、紅白歌合戦に連続して出られて、あれよあれよと売り出してきた。もう二期会では面倒見切れなくなり、逆に言えばそこから巣立って行かれたという言葉が妥当かどうか分かりませんけど、飛び立って行かれたわけですけどね。
芸術家在外研修員としてのミラノ、世界的なオペラ歌手へ
佐藤)私は、オペラ歌手になるなんて思っていなかったんです。中山先生にお目にかかって、とにかく素晴らしい先生と出会えましたし、森島先生をはじめ、松井先生(松井和彦、指揮・コルペティトア)もいらしたし、本当に黄金の時代だったと思うんです。そこであまりにも素晴らしい授業があって、自分が将来歌い手になると言うこととは別に、「こんな風に歌えたら素晴らしいな」という気持ちで、毎日毎日が楽しくて「ああそうなのか、こうなのか」の連続で、それがたまたまその後の舞台につながっていったという流れが幸運に続いたんですね。ですからオペラ歌手になりたいなんて、本当に思っていなかったんですよ。
中山)そういいながらも、ずいぶん海外でもご活躍されましたよね。文化庁の在外研修を受けられたのが始まりでしょう。初めてオペラ歌手として留学した時の思い出をあげてもらえますか。
佐藤) イタリアのミラノに行った時ですが、その時、体重が52キロしかなかったんです。女性の先生の所に行きましたら、私の体を見て、「こんな体じゃオペラ歌手にはなれません。来週までにちゃんとオペラ歌手にふさわしい“楽器”になってこないと日本に帰します」と言われたんです。最初から帰されても困るので、とにかくその日から一生懸命食べたんですけど、なかなか太れなくて、私なりに訓練をして太るという練習をしましたね。
中山)それはめったにない話ですね(笑い)。痩せる話は山ほどありますけど。
佐藤)練習の前に落とされるなんて嫌じゃないですか。だから最初は言葉よりも何よりも体づくり、そこから始まりました。その後にはもちろん言葉の問題だとか、発声の問題だとか、あと精神力ですね。外国人のソプラノの方は、自分でやったことがないものでも、「私は歌えます」とみんな平気で言うわけです。私からすれば、「嘘はついちゃいけない」と習っていますから、次から次へと聞かれることに対して「できない、できない」ばっかりになるわけですよね。そういう意味でもすべてがカルチャーショックでした。オペラ歌手になるなんて、「これは無理だな」って思っていました。でも国からの派遣ですから、みなさんの税金で勉強させて頂くのだからと、とにかく吸収できることは何でも吸収しようと学んでいましたね。
中山) 佐藤しのぶともあろう人が、そういう時代もあったという貴重な証言ですね。私も以前勤めていた会社の仕事でずいぶん海外にも行きましたし、このオペラの世界に入っても海外のオペラ劇場と共同制作をするとかで行きますけど、日本人っていうのは正直すぎてね、真っ向にすべて受けちゃって、そういう意味では一皮むいて横着にならないと駄目ですよね。
佐藤)ええ、本当に強くならないといけない。
中山)「何でもできるよ」くらいのことが言えないと、ビジネスでもなかなか成功は収められないと思いますね。体型のことでいえば、外国のオペラ劇場に行って、そこの建物に近づいて行くと、向こうから歩いてくる女性が一目で歌手か、そうじゃないかって、分かりますもんね。「この人はそうに違いない」と思ったら、楽屋口にすっと入っていきますから。
佐藤)それぐらいエネルギーというか、オーラといいますか、存在感がありますからね。
中山)海外のことですが、今年は日本オーストリアの修好140年ということで、ウィーンの話をこの芸短大でも公開講座として開いたんです。私も少しお話しさせて頂きました。他にも、大学の専門の先生がお話ししまして、音楽も小林道夫先生(芸短大客員教授)や佐々木典子先生(東京芸術大学音楽部准教授、二期会会員)にも来て頂いて、非常に面白かったのです。しのぶさんはウィーンの思い出は何かありますか。
佐藤)ウィーンは今までに何度も訪れた国のひとつですね。そこで歌ったこともありますし、現田の留学先もウィーンだったんです。あの時はちょうど湾岸戦争の頃で、飛行機も空いていましたし、私もよく食糧をもって主人を慰問していました。
中山)ウィーンで歌われた時はどうでしたか。
佐藤)寒い日でした。最初に歌った時はミカエラでした、ゼッフェレッリの演出ですよね。初演はドミンゴ、オブラツォワだったんですかね、そういう意味ではものすごく光栄でした。楽屋が役柄によって決まっていまして、ちょうど何日か前に多分バルツァ(カルメン)が歌われていたようで、ミカエラの私の部屋に何か忘れものをされて、取りに来られたんです。私がちょうど半分ぐらい、お化粧をしているような状態の時にドアが開いて入っていらっしゃって、「頑張ってね」と言われて目がパッと合ったんですね。私は本当に緊張しながらも、その一瞬は夢を見ているような、夢なら覚めないでっていう感じでしたね。
中山)その部屋には名簿があって、歴代でミカエラを歌った歌手の名前がずっと書いてあるんですよね。
佐藤)そうなんです。初めて歌う人はプログラムに白丸だったかな、印が付くんですよ。ですからお客様がいらして、この子は初めて歌うのだということが分かるんですね。そうするとやっぱり反応も違っていて、その時は本当に奇跡的に大変うまくいったんですよ。やっぱり、いいこともたまにはあるものですね。
中山)しのぶさんは役柄としてはミカエラが合う、それからリュウも、一番自分としては歌いたい役だとおっしゃられていますよね。リュウの役にしても、ミカエラの役にしても、実際に作曲家が想像して作った人間像とは違う声の性質の方が歌っているケースって結構多いんじゃないかな。例えば、強いリリコの声が望まれているのに、レジェロの方が歌っているとか。
森島)それはあります。特に日本ではほとんどがそうじゃないでしょうか。
中山)私が見た時に、強烈な個性があって、その個性をただバーンと出すわけじゃなく、それをぐっとこらえて歌っているといった、そのあたりが心理的に凄く深い役だなっという思いがしたんです。そういうところにも魅力があるんでしょうかね。
佐藤)私が望む役はいろんな意味で、私に適していると思うんです。勿論、プリマドンナで『バタフライ』を歌うとか、『トスカ』を歌うとか、それにもいろんなことがありますけど、曲の内面を描くキャラクターが、自分としては非常に居心地のいいポジションなんですね。
中山)日本もどんどん若手のレベルが上がって、二期会の場合はできるだけ若手にデビューのチャンスを与えようということがありますからね。
佐藤)私も若い頃にいろんな役を頂きました。
森島)24歳の時に『メリー・ウィドー』でデビューでしたから。
中山)そうでしたね。『メリー・ウィドー』でハンナを歌うんですからね。普通、ベテランのプリマが歌うでしょう。
佐藤)それは、中山(悌一)先生に「オーディションがあるから、受けろ」と言われたんです。私はその時、『メリー・ウィドー』って知りませんでした。二期会の事務所にオーディションの紙が貼ってありまして、そこには4つの役を募集しますって、書かれていたんです。ハンナ・グラヴァリとヴァランシェンヌ、カミーユとダニロ。カミーユ、ダニロは男性なのでこれは違うなと思いました。ハンナとヴァランシェンヌは、どちらもソプラノでした。それで中山先生にお電話して、「先生、2つ書いてあります。ハンナというのと、ヴァランシェンヌという名前があります。私はどちらを受けるのでしょうか」って聞くと、「ハンナじゃ」っておっしゃったんです。
中山)そして役を取っちゃったんだ。
佐藤)でも、栗山先生のレッスンは大変でしたよ。ご存知ないですか、あの伝説を。
中山)もちろん、もちろん、存じております。
森島)有名な話ですから。
佐藤)それは凄かったんですから。でも今思えば、一生懸命にやっているんですけど、先生のいうことを理解できなかったのかも知れませんね。技術的にも未熟でしたし、歌は歌えても台詞(セリフ)の場面になるとダメ。
中山)日本人には難しいでしょう。
佐藤)クラシックを歌う時と日本語を話す時では、声の使い方が違うし、歌と台詞が代わる代わるやって来るなかで、声を自在に操るのは本当に大変でした。私以上に叱られた人はいないですよ。未だに私を越える人はいないんじゃないかな。
森島)いっぱいいます。みんな叱られていますよ。
中山)栗山先生の演出では、みんな叱られていますよ。最近では二期会の場合、『蝶々夫人』と『ヘンゼルとグレーテル』の2つぐらいですけど、泣かない人はいないというぐらい、いつもですよ。とくに『蝶々夫人』になると凄い。だけど先生がおっしゃっていることって、怒る理由が分かるんですよね。それがその通りにいくようになって、終盤になるとホッとした顔で「なんとかなるか」みたいな感じになって、本番には本当に蝶々さんがぐーっと浮き出して、ほかの人たちがそれぞれの演技をしながらも蝶々さんの存在がどんどん大きくなりますもんね。凄いと思いますよ。『こうもり』もそうですよね。
森島)立川先生(立川澄人1929,2.15-1985,12.31、バリトン歌手、大分市出身)が、ずっと『こうもり』をされていましたからね。
中山)あの演出は名作だったと思いますね。大分でやった時は、合唱を東京から連れてくる予算がなくて。だけど合唱は絶対にワルツを踊らないといけないでしょう。半分は連れてくる、残りの半分は県民オペラの合唱の方に特訓をして頂くということで、本番当日の午前中まで稽古していましたからね。
佐藤)当日までですか。それは凄い。
中山)ええ、でも見事にやれましたね。あれが大分でやれてよかったです。
中山)そういいながらも、ずいぶん海外でもご活躍されましたよね。文化庁の在外研修を受けられたのが始まりでしょう。初めてオペラ歌手として留学した時の思い出をあげてもらえますか。
佐藤) イタリアのミラノに行った時ですが、その時、体重が52キロしかなかったんです。女性の先生の所に行きましたら、私の体を見て、「こんな体じゃオペラ歌手にはなれません。来週までにちゃんとオペラ歌手にふさわしい“楽器”になってこないと日本に帰します」と言われたんです。最初から帰されても困るので、とにかくその日から一生懸命食べたんですけど、なかなか太れなくて、私なりに訓練をして太るという練習をしましたね。
中山)それはめったにない話ですね(笑い)。痩せる話は山ほどありますけど。
佐藤)練習の前に落とされるなんて嫌じゃないですか。だから最初は言葉よりも何よりも体づくり、そこから始まりました。その後にはもちろん言葉の問題だとか、発声の問題だとか、あと精神力ですね。外国人のソプラノの方は、自分でやったことがないものでも、「私は歌えます」とみんな平気で言うわけです。私からすれば、「嘘はついちゃいけない」と習っていますから、次から次へと聞かれることに対して「できない、できない」ばっかりになるわけですよね。そういう意味でもすべてがカルチャーショックでした。オペラ歌手になるなんて、「これは無理だな」って思っていました。でも国からの派遣ですから、みなさんの税金で勉強させて頂くのだからと、とにかく吸収できることは何でも吸収しようと学んでいましたね。
中山) 佐藤しのぶともあろう人が、そういう時代もあったという貴重な証言ですね。私も以前勤めていた会社の仕事でずいぶん海外にも行きましたし、このオペラの世界に入っても海外のオペラ劇場と共同制作をするとかで行きますけど、日本人っていうのは正直すぎてね、真っ向にすべて受けちゃって、そういう意味では一皮むいて横着にならないと駄目ですよね。
佐藤)ええ、本当に強くならないといけない。
中山)「何でもできるよ」くらいのことが言えないと、ビジネスでもなかなか成功は収められないと思いますね。体型のことでいえば、外国のオペラ劇場に行って、そこの建物に近づいて行くと、向こうから歩いてくる女性が一目で歌手か、そうじゃないかって、分かりますもんね。「この人はそうに違いない」と思ったら、楽屋口にすっと入っていきますから。
佐藤)それぐらいエネルギーというか、オーラといいますか、存在感がありますからね。
中山)海外のことですが、今年は日本オーストリアの修好140年ということで、ウィーンの話をこの芸短大でも公開講座として開いたんです。私も少しお話しさせて頂きました。他にも、大学の専門の先生がお話ししまして、音楽も小林道夫先生(芸短大客員教授)や佐々木典子先生(東京芸術大学音楽部准教授、二期会会員)にも来て頂いて、非常に面白かったのです。しのぶさんはウィーンの思い出は何かありますか。
佐藤)ウィーンは今までに何度も訪れた国のひとつですね。そこで歌ったこともありますし、現田の留学先もウィーンだったんです。あの時はちょうど湾岸戦争の頃で、飛行機も空いていましたし、私もよく食糧をもって主人を慰問していました。
中山)ウィーンで歌われた時はどうでしたか。
佐藤)寒い日でした。最初に歌った時はミカエラでした、ゼッフェレッリの演出ですよね。初演はドミンゴ、オブラツォワだったんですかね、そういう意味ではものすごく光栄でした。楽屋が役柄によって決まっていまして、ちょうど何日か前に多分バルツァ(カルメン)が歌われていたようで、ミカエラの私の部屋に何か忘れものをされて、取りに来られたんです。私がちょうど半分ぐらい、お化粧をしているような状態の時にドアが開いて入っていらっしゃって、「頑張ってね」と言われて目がパッと合ったんですね。私は本当に緊張しながらも、その一瞬は夢を見ているような、夢なら覚めないでっていう感じでしたね。
中山)その部屋には名簿があって、歴代でミカエラを歌った歌手の名前がずっと書いてあるんですよね。
佐藤)そうなんです。初めて歌う人はプログラムに白丸だったかな、印が付くんですよ。ですからお客様がいらして、この子は初めて歌うのだということが分かるんですね。そうするとやっぱり反応も違っていて、その時は本当に奇跡的に大変うまくいったんですよ。やっぱり、いいこともたまにはあるものですね。
中山)しのぶさんは役柄としてはミカエラが合う、それからリュウも、一番自分としては歌いたい役だとおっしゃられていますよね。リュウの役にしても、ミカエラの役にしても、実際に作曲家が想像して作った人間像とは違う声の性質の方が歌っているケースって結構多いんじゃないかな。例えば、強いリリコの声が望まれているのに、レジェロの方が歌っているとか。
森島)それはあります。特に日本ではほとんどがそうじゃないでしょうか。
中山)私が見た時に、強烈な個性があって、その個性をただバーンと出すわけじゃなく、それをぐっとこらえて歌っているといった、そのあたりが心理的に凄く深い役だなっという思いがしたんです。そういうところにも魅力があるんでしょうかね。
佐藤)私が望む役はいろんな意味で、私に適していると思うんです。勿論、プリマドンナで『バタフライ』を歌うとか、『トスカ』を歌うとか、それにもいろんなことがありますけど、曲の内面を描くキャラクターが、自分としては非常に居心地のいいポジションなんですね。
中山)日本もどんどん若手のレベルが上がって、二期会の場合はできるだけ若手にデビューのチャンスを与えようということがありますからね。
佐藤)私も若い頃にいろんな役を頂きました。
森島)24歳の時に『メリー・ウィドー』でデビューでしたから。
中山)そうでしたね。『メリー・ウィドー』でハンナを歌うんですからね。普通、ベテランのプリマが歌うでしょう。
佐藤)それは、中山(悌一)先生に「オーディションがあるから、受けろ」と言われたんです。私はその時、『メリー・ウィドー』って知りませんでした。二期会の事務所にオーディションの紙が貼ってありまして、そこには4つの役を募集しますって、書かれていたんです。ハンナ・グラヴァリとヴァランシェンヌ、カミーユとダニロ。カミーユ、ダニロは男性なのでこれは違うなと思いました。ハンナとヴァランシェンヌは、どちらもソプラノでした。それで中山先生にお電話して、「先生、2つ書いてあります。ハンナというのと、ヴァランシェンヌという名前があります。私はどちらを受けるのでしょうか」って聞くと、「ハンナじゃ」っておっしゃったんです。
中山)そして役を取っちゃったんだ。
佐藤)でも、栗山先生のレッスンは大変でしたよ。ご存知ないですか、あの伝説を。
中山)もちろん、もちろん、存じております。
森島)有名な話ですから。
佐藤)それは凄かったんですから。でも今思えば、一生懸命にやっているんですけど、先生のいうことを理解できなかったのかも知れませんね。技術的にも未熟でしたし、歌は歌えても台詞(セリフ)の場面になるとダメ。
中山)日本人には難しいでしょう。
佐藤)クラシックを歌う時と日本語を話す時では、声の使い方が違うし、歌と台詞が代わる代わるやって来るなかで、声を自在に操るのは本当に大変でした。私以上に叱られた人はいないですよ。未だに私を越える人はいないんじゃないかな。
森島)いっぱいいます。みんな叱られていますよ。
中山)栗山先生の演出では、みんな叱られていますよ。最近では二期会の場合、『蝶々夫人』と『ヘンゼルとグレーテル』の2つぐらいですけど、泣かない人はいないというぐらい、いつもですよ。とくに『蝶々夫人』になると凄い。だけど先生がおっしゃっていることって、怒る理由が分かるんですよね。それがその通りにいくようになって、終盤になるとホッとした顔で「なんとかなるか」みたいな感じになって、本番には本当に蝶々さんがぐーっと浮き出して、ほかの人たちがそれぞれの演技をしながらも蝶々さんの存在がどんどん大きくなりますもんね。凄いと思いますよ。『こうもり』もそうですよね。
森島)立川先生(立川澄人1929,2.15-1985,12.31、バリトン歌手、大分市出身)が、ずっと『こうもり』をされていましたからね。
中山)あの演出は名作だったと思いますね。大分でやった時は、合唱を東京から連れてくる予算がなくて。だけど合唱は絶対にワルツを踊らないといけないでしょう。半分は連れてくる、残りの半分は県民オペラの合唱の方に特訓をして頂くということで、本番当日の午前中まで稽古していましたからね。
佐藤)当日までですか。それは凄い。
中山)ええ、でも見事にやれましたね。あれが大分でやれてよかったです。
国際交流で教えられた人間の真の尊さ、垣根を越える音楽の力
中山)しのぶさんの著書(『歌声は心をつなぐ』東京書籍)を読ませて頂きました。そのなかで、チェルノブイリとバングラディッシュのお話が出てきます。どちらも印象が強かったのですが、少しご紹介いただけますか。
佐藤)ありがとうございます。両方とも森島さんが一緒に行ってくださいました。チェルノブイリは原子力事故の汚染地域なんですが、その子どもたちの前でコンサートをしました。きっかけは、1通の手紙からでした。「今なお被爆の後遺症で苦しんでいる子どもたちがいます。その子どもたちに生きる希望を与えて欲しい。コンサートを開いてくれないか」というものでした。被爆した子どもの母親からのメッセージも添えられていて、私にできることならと決めたんです。
中山)ベラルーシですね。
佐藤)そうです。周りからの反対もありましたが、森島さんも賛成してくださいました。森島さんは私が素直にぶつけられる唯一の人で、また森島さんも私に本当のことを教えてくださるし。小さな講堂でのコンサートでしたが、子どもたちの真剣な目は忘れません。アヴェ・マリアを歌いながら、私は愛する気持ちでいっぱいになりました。
森島)あの時は人生が本当に変わるくらいのいろんな経験をしましたね。人には夢や希望が必要なんだと。バングラディッシュは、彼女のデビュー20周年にあたる時で、自分たちで望んで行きたいということで一生懸命企画しました。みんなからは「行くな、危険だ」と言われながらも、「何が何でも行く」といって、私たちの意思で行きました。
中山)「何がなんでもバングラディッシュだ」と選んだというのにはどういった理由があるんですか。
森島)その時はバングラディッシュだけじゃなく、タイなど、いくつか候補の国がありました。最初はアフガンに行こうと思っていましたが、やはり危険で入国してはいけない時期だったんです。その企画では、日本に戻ってきて、その時の経験とフィルムをもとに日生劇場で演奏会をすることになっていました。そういう時に体調が悪くなって演奏できなくなったら問題だとか、たくさんの制約の中で、「バングラディッシュだったら行ける、じゃあ行こう」となったんです。
佐藤)アジアの中で最貧国ということもありました。子どもたちがやはり一番の犠牲者というか、大変な状況にあるということで。でも、子どもたちは素敵でしたね。向こうの子どもたちは明るい。すごい笑顔でした。もちろん、問題は山のようにあるし、心に深い傷もあって。
森島)だから優しい。
佐藤)そう、心はとても優しい。どんなものでも分け合うんです。ちょうど、私たちが行った所の子どもたちも、お昼ご飯になったら自分たちのカレーを私たちにも「おいで、おいで」って言って、分けてくれるんですよ。「いいよ、私たちは大丈夫だよ」と言っても、「一緒に食べよう」って誘ってくれるんです。
中山)それでも本に書いてあるように、非常に衛生の悪いところに暮らしているから、その2年、3年後には死んでしまうことがごく当たり前に起こるような中で、それだけ明るく生きている秘密というのは何なんですかね。
森島)やはり、夢や希望を持っているからだと思いました。一日中くず拾いをしても5円ぐらいしかならないんですけれども、その5円を子ども銀行に貯金するんです。そのまま持っていると大人にみんなとられちゃうから。その貯金したお金は自分で使うためではないんです。それはね、大人になってお母さんに家を建ててあげるためなんですよ。
中山)そうですか。そういう子ども銀行といったシェルターをやっている機関があるわけですね。
森島)ええ、NGOがやっています。
中山)あの本を読んで、しのぶさんの原点というのを私なりに感じたんですよね。音楽活動というのも原点は同じかなと思って。しのぶさんが書かれたり、インタビューされたものを読んでみましたら、やはり人間というものに対する尊厳とか、愛とか、そういったものを共通して感じるんですよね。多分それは舞台にも出ているんじゃないかな。
佐藤)そうでしたら嬉しいですね。
佐藤)ありがとうございます。両方とも森島さんが一緒に行ってくださいました。チェルノブイリは原子力事故の汚染地域なんですが、その子どもたちの前でコンサートをしました。きっかけは、1通の手紙からでした。「今なお被爆の後遺症で苦しんでいる子どもたちがいます。その子どもたちに生きる希望を与えて欲しい。コンサートを開いてくれないか」というものでした。被爆した子どもの母親からのメッセージも添えられていて、私にできることならと決めたんです。
中山)ベラルーシですね。
佐藤)そうです。周りからの反対もありましたが、森島さんも賛成してくださいました。森島さんは私が素直にぶつけられる唯一の人で、また森島さんも私に本当のことを教えてくださるし。小さな講堂でのコンサートでしたが、子どもたちの真剣な目は忘れません。アヴェ・マリアを歌いながら、私は愛する気持ちでいっぱいになりました。
森島)あの時は人生が本当に変わるくらいのいろんな経験をしましたね。人には夢や希望が必要なんだと。バングラディッシュは、彼女のデビュー20周年にあたる時で、自分たちで望んで行きたいということで一生懸命企画しました。みんなからは「行くな、危険だ」と言われながらも、「何が何でも行く」といって、私たちの意思で行きました。
中山)「何がなんでもバングラディッシュだ」と選んだというのにはどういった理由があるんですか。
森島)その時はバングラディッシュだけじゃなく、タイなど、いくつか候補の国がありました。最初はアフガンに行こうと思っていましたが、やはり危険で入国してはいけない時期だったんです。その企画では、日本に戻ってきて、その時の経験とフィルムをもとに日生劇場で演奏会をすることになっていました。そういう時に体調が悪くなって演奏できなくなったら問題だとか、たくさんの制約の中で、「バングラディッシュだったら行ける、じゃあ行こう」となったんです。
佐藤)アジアの中で最貧国ということもありました。子どもたちがやはり一番の犠牲者というか、大変な状況にあるということで。でも、子どもたちは素敵でしたね。向こうの子どもたちは明るい。すごい笑顔でした。もちろん、問題は山のようにあるし、心に深い傷もあって。
森島)だから優しい。
佐藤)そう、心はとても優しい。どんなものでも分け合うんです。ちょうど、私たちが行った所の子どもたちも、お昼ご飯になったら自分たちのカレーを私たちにも「おいで、おいで」って言って、分けてくれるんですよ。「いいよ、私たちは大丈夫だよ」と言っても、「一緒に食べよう」って誘ってくれるんです。
中山)それでも本に書いてあるように、非常に衛生の悪いところに暮らしているから、その2年、3年後には死んでしまうことがごく当たり前に起こるような中で、それだけ明るく生きている秘密というのは何なんですかね。
森島)やはり、夢や希望を持っているからだと思いました。一日中くず拾いをしても5円ぐらいしかならないんですけれども、その5円を子ども銀行に貯金するんです。そのまま持っていると大人にみんなとられちゃうから。その貯金したお金は自分で使うためではないんです。それはね、大人になってお母さんに家を建ててあげるためなんですよ。
中山)そうですか。そういう子ども銀行といったシェルターをやっている機関があるわけですね。
森島)ええ、NGOがやっています。
中山)あの本を読んで、しのぶさんの原点というのを私なりに感じたんですよね。音楽活動というのも原点は同じかなと思って。しのぶさんが書かれたり、インタビューされたものを読んでみましたら、やはり人間というものに対する尊厳とか、愛とか、そういったものを共通して感じるんですよね。多分それは舞台にも出ているんじゃないかな。
佐藤)そうでしたら嬉しいですね。
若き芸術家たちへ、つなぐバトン
中山)私は20年10月から大分県立芸術文化短期大学で学長をしています。二期会での仕事をそのまま抱えながらですので、芸短大での仕事が半分と少し。残りが二期会ということです。それぞれ半分の仕事をすればいいだろうと思ったら、とんでもない間違いで、半分の中に1年分が両方全部詰まっているので、カケ2倍ですよ(笑い)。仕事の密度が倍になったというだけの話でね。
森島)それは大変ですね。
中山)それでもこの1年間病気もせずに頑張れているし、大分に来るまで腰痛を抱えていたのが良くなったぐらい。体調が良くなった一番大きな理由は、学生たちが素敵だということです。オペラ研修所の話の時に、学生の話をしましたが、芸短大の学生はとにかく明るく素直で、前向きなんです。時間が限られた中で本当に忙しい思いをしながら、先生の授業を吸収して、知識を身につけ、社会経験をしていかなければならないのですが、そこには「生きる」という実感があるんですよ。
私の同級生のお孫さんで、短大2年を卒業して東京芸大に入学した学生がいましてね、「学長先生は“きんちゃん”って呼ばれていましたでしょう」と、卒業式の時に言われてビックリしました。「何でそんなこと知っているの」と聞いたら、「私のおじいちゃんが同級生だった」と言うんです。今ですと情報コミュニケーション学科の1年生にやはり同級生のお孫さんがいらっしゃっる。そういった孫の世代の人たちですけど、毎日がとても楽しいです。
森島)女子学生が多いので楽しさも倍増(笑い)。
中山)学生の9割が女性ですから、それもあるかも知れない(笑い)。それもありますけども、みんなの前向きな心には、本当に「生きている」と感じるんです。そのお陰で、こちらも「生きがい」をたくさん感じることができます。
今回、「芸短フェスタ」のメインイベントとして、しのぶさんたちをお招きしたのは、僕はどうしても学生たちに見せたかった。テレビを通してではなく、実際の舞台姿を見せて本物を感じてもらいたいと思ったんです。
佐藤)はい、ありがとうございます。私もデビューからいろいろな方に助けて頂いて、教えて頂きました。中山(悌一)先生をはじめ、こうして欽吾さんにもお目にかかれました。自分がここまで来られたのは本当にみなさんのお陰で、今の私があるわけです。昔、私の父が「50歳を過ぎたら世の中のために尽くすような人間になりなさい」と言っていたように、これからは次の世代にどんどん渡していきたいという気持ちもありますし、これから歌っていくステージのなかで、直接来てくださる方との出会いを、とくに大切にしたいと考えています。
中山) それはとても嬉しいです。お招きした甲斐がありました。
佐藤)こちらこそすごく光栄です。今回、舞台を見てくださる学生さんは、ちょうど私の娘と同じくらいの年なんです。欽吾さんがお孫さんに、私が娘に伝えていくといった、ちょうどそういう感じでしょうか。
中山)そうですね(笑い)。しのぶさんと森島さんはずっとご一緒に演奏活動も含めてやっていますが、それは研修所時代からの「この人だ」という運命的な出会いがあったんですか。
佐藤)ええ、ありました。森島さんはオペラ研修所に入る前から先生でしたので、一生頭が上がらないんです。よく言われるのが、歌い手が威張っていてピアニストがオロオロするというのが普通なんですけど、うちは逆なんですよ(笑い)。毎回、試験みたいになっています(笑い)。最初からピアニストだけじゃなくて、そういう意味でも音楽というものを理解するというところから始まっている関係だからだと思うんですけど。やはり森島さんのような方に、日本で出会えたということが私はものすごく運がいいと思うんですよ。
中山) そうですか。
佐藤) 私から森島さんに伺いたいんですけど、歌い手は次々と素晴らしいバトンを渡せるような方がいますが、森島さんのように、コルペティトア(注)のバトンを渡せる人は現状としてはいかがなものでしょう。
森島)徐々にですが、増えています。
中山)コルぺティトアという職業そのものを知らない人が大部分でしょう。
森島)そうですね。でも増えましたよ。それこそ私が悌一先生にお目にかかったのが15歳の時でした。それから東京芸大に行きました。靖子先生はオペラの仕事をするのは反対でしたから、「ピアノだけでいい」っておっしゃっていました。「ピアノ科に入ったのになんでオペラをやるの」って。そうおっしゃるのも当然の時代でしたし、職業としての存在はありませんでしたからね。でも、悌一先生は、「是非おやりなさい。僕が靖子を説得するから」と言ってくださいました。それで二期会のお仕事をしていたんです。今はコルぺティトアを目指している人が私のクラスだけでも30人以上います。ただ大変なことなので、1年勉強したからってなれるものでもなく。でもそのクラスでも10人くらいでしょうか、あちこちで使ってもらえるようになりました。コルペティトアになりたいという人がたくさん出てきただけでも、私はすごい進歩だと思っています。
中山)私も門外漢でオペラ制作の仕事に入ったわけですけど、そこで感じたのは、私たちの仕事は二期会のオペラをつくることだということでした。どこのオペラを見ても二期会の人たちが歌っているんです。市民オペラでも県民オペラでもみんなそうです。そうすると二期会がつくるオペラというのは、どういうオペラであるべきなのか、と私なりに考えたんです。それはやはり稽古でつくり上げていくクオリティー(質)だと思ったんです。確かにスターがいるかいないかは大きく違いますけど、それ以前の問題として、とくに二期会の場合はアンサンブルオペラを重視していましたから、やっぱり完成度の高さです。そのためには最初の音楽稽古の段階からきちんとした人に教わらないと出来ないだろうと、私は門外漢であるがゆえにそう思ったんですよね。
そのころ、森島さんともお知り合いになってその次の世代を背負うのは誰かみたいな話はいつもあって、それでもうずいぶんたくさん出てきましたよね。
森島)目指す人も多くなりました。昔は人がいなかったんですが。
中山)ただ、アンサンブルに、稽古に、相手役の歌まで全部歌いながらピアノを弾く、しかも芸術的な完成度をきちんととりながらやるっていう仕事はとてつもない仕事ですよね。
森島)日本人は言葉の問題があります。とくにピアノを勉強してきた子たちは外国語を学ぶことが歌い手よりも圧倒的に少ない。だから私のところに勉強に来た子たちには、ピアノは弾けるから、まずは言葉の勉強からしてもらう。それからオーケストラの勉強などそっちから入りますね。
中山)指揮者に求められるオーケストラスコアを読み取る力とか、ドラマの中の音楽としての解釈をしないといけない。指揮者が表現したいことを理解した上で、コルペティトアはやらなければいけないという面もあるでしょう。
森島)それもあります。私が始めた頃は、例えば中山先生や若杉先生(若杉弘1935,5.3-2009,7.21指揮者、新国立劇場芸術監督、日本芸術院会員等)演出家の先生とか3か月間、毎日稽古にいらっしゃっていたんですね。だから仕事に行っているのか、勉強しに行っているのかわからない状況でしたけど。
中山)皆さんそうおっしゃられますね。
森島)それはもう幸せな時間でした。今は、指揮者は本番近くになってからいらっしゃることがどうしても多いですね。ですから逆に、どんな要求をされても応えられるようにつくっていく、準備をしていくということを考えるほうが多いかもしれない。初めに指揮者の方と打ち合わせができて、「ああこういう意図なんだ」と分かってスタートできたらもっと効率がいいと思いますけど。
中山)だけど、そういう日本最高のコルぺティトアと一緒に仕事をやっているということの大きさというのも一方ではありますよね。
佐藤)あります。オペラはドラマですから、言葉と音楽とが一体となっているわけです。半分しか分からないとそれは作品にならないんです。ピアノでやればやるほど、それこそオペラでは、オーケストラがあって、照明があって、共演者がいてといういろんな要素が助けてくれますけど、それが彼女ひとりと私だけの時間なのでよりはっきり出ると思います。
森島)それは大変ですね。
中山)それでもこの1年間病気もせずに頑張れているし、大分に来るまで腰痛を抱えていたのが良くなったぐらい。体調が良くなった一番大きな理由は、学生たちが素敵だということです。オペラ研修所の話の時に、学生の話をしましたが、芸短大の学生はとにかく明るく素直で、前向きなんです。時間が限られた中で本当に忙しい思いをしながら、先生の授業を吸収して、知識を身につけ、社会経験をしていかなければならないのですが、そこには「生きる」という実感があるんですよ。
私の同級生のお孫さんで、短大2年を卒業して東京芸大に入学した学生がいましてね、「学長先生は“きんちゃん”って呼ばれていましたでしょう」と、卒業式の時に言われてビックリしました。「何でそんなこと知っているの」と聞いたら、「私のおじいちゃんが同級生だった」と言うんです。今ですと情報コミュニケーション学科の1年生にやはり同級生のお孫さんがいらっしゃっる。そういった孫の世代の人たちですけど、毎日がとても楽しいです。
森島)女子学生が多いので楽しさも倍増(笑い)。
中山)学生の9割が女性ですから、それもあるかも知れない(笑い)。それもありますけども、みんなの前向きな心には、本当に「生きている」と感じるんです。そのお陰で、こちらも「生きがい」をたくさん感じることができます。
今回、「芸短フェスタ」のメインイベントとして、しのぶさんたちをお招きしたのは、僕はどうしても学生たちに見せたかった。テレビを通してではなく、実際の舞台姿を見せて本物を感じてもらいたいと思ったんです。
佐藤)はい、ありがとうございます。私もデビューからいろいろな方に助けて頂いて、教えて頂きました。中山(悌一)先生をはじめ、こうして欽吾さんにもお目にかかれました。自分がここまで来られたのは本当にみなさんのお陰で、今の私があるわけです。昔、私の父が「50歳を過ぎたら世の中のために尽くすような人間になりなさい」と言っていたように、これからは次の世代にどんどん渡していきたいという気持ちもありますし、これから歌っていくステージのなかで、直接来てくださる方との出会いを、とくに大切にしたいと考えています。
中山) それはとても嬉しいです。お招きした甲斐がありました。
佐藤)こちらこそすごく光栄です。今回、舞台を見てくださる学生さんは、ちょうど私の娘と同じくらいの年なんです。欽吾さんがお孫さんに、私が娘に伝えていくといった、ちょうどそういう感じでしょうか。
中山)そうですね(笑い)。しのぶさんと森島さんはずっとご一緒に演奏活動も含めてやっていますが、それは研修所時代からの「この人だ」という運命的な出会いがあったんですか。
佐藤)ええ、ありました。森島さんはオペラ研修所に入る前から先生でしたので、一生頭が上がらないんです。よく言われるのが、歌い手が威張っていてピアニストがオロオロするというのが普通なんですけど、うちは逆なんですよ(笑い)。毎回、試験みたいになっています(笑い)。最初からピアニストだけじゃなくて、そういう意味でも音楽というものを理解するというところから始まっている関係だからだと思うんですけど。やはり森島さんのような方に、日本で出会えたということが私はものすごく運がいいと思うんですよ。
中山) そうですか。
佐藤) 私から森島さんに伺いたいんですけど、歌い手は次々と素晴らしいバトンを渡せるような方がいますが、森島さんのように、コルペティトア(注)のバトンを渡せる人は現状としてはいかがなものでしょう。
森島)徐々にですが、増えています。
中山)コルぺティトアという職業そのものを知らない人が大部分でしょう。
森島)そうですね。でも増えましたよ。それこそ私が悌一先生にお目にかかったのが15歳の時でした。それから東京芸大に行きました。靖子先生はオペラの仕事をするのは反対でしたから、「ピアノだけでいい」っておっしゃっていました。「ピアノ科に入ったのになんでオペラをやるの」って。そうおっしゃるのも当然の時代でしたし、職業としての存在はありませんでしたからね。でも、悌一先生は、「是非おやりなさい。僕が靖子を説得するから」と言ってくださいました。それで二期会のお仕事をしていたんです。今はコルぺティトアを目指している人が私のクラスだけでも30人以上います。ただ大変なことなので、1年勉強したからってなれるものでもなく。でもそのクラスでも10人くらいでしょうか、あちこちで使ってもらえるようになりました。コルペティトアになりたいという人がたくさん出てきただけでも、私はすごい進歩だと思っています。
中山)私も門外漢でオペラ制作の仕事に入ったわけですけど、そこで感じたのは、私たちの仕事は二期会のオペラをつくることだということでした。どこのオペラを見ても二期会の人たちが歌っているんです。市民オペラでも県民オペラでもみんなそうです。そうすると二期会がつくるオペラというのは、どういうオペラであるべきなのか、と私なりに考えたんです。それはやはり稽古でつくり上げていくクオリティー(質)だと思ったんです。確かにスターがいるかいないかは大きく違いますけど、それ以前の問題として、とくに二期会の場合はアンサンブルオペラを重視していましたから、やっぱり完成度の高さです。そのためには最初の音楽稽古の段階からきちんとした人に教わらないと出来ないだろうと、私は門外漢であるがゆえにそう思ったんですよね。
そのころ、森島さんともお知り合いになってその次の世代を背負うのは誰かみたいな話はいつもあって、それでもうずいぶんたくさん出てきましたよね。
森島)目指す人も多くなりました。昔は人がいなかったんですが。
中山)ただ、アンサンブルに、稽古に、相手役の歌まで全部歌いながらピアノを弾く、しかも芸術的な完成度をきちんととりながらやるっていう仕事はとてつもない仕事ですよね。
森島)日本人は言葉の問題があります。とくにピアノを勉強してきた子たちは外国語を学ぶことが歌い手よりも圧倒的に少ない。だから私のところに勉強に来た子たちには、ピアノは弾けるから、まずは言葉の勉強からしてもらう。それからオーケストラの勉強などそっちから入りますね。
中山)指揮者に求められるオーケストラスコアを読み取る力とか、ドラマの中の音楽としての解釈をしないといけない。指揮者が表現したいことを理解した上で、コルペティトアはやらなければいけないという面もあるでしょう。
森島)それもあります。私が始めた頃は、例えば中山先生や若杉先生(若杉弘1935,5.3-2009,7.21指揮者、新国立劇場芸術監督、日本芸術院会員等)演出家の先生とか3か月間、毎日稽古にいらっしゃっていたんですね。だから仕事に行っているのか、勉強しに行っているのかわからない状況でしたけど。
中山)皆さんそうおっしゃられますね。
森島)それはもう幸せな時間でした。今は、指揮者は本番近くになってからいらっしゃることがどうしても多いですね。ですから逆に、どんな要求をされても応えられるようにつくっていく、準備をしていくということを考えるほうが多いかもしれない。初めに指揮者の方と打ち合わせができて、「ああこういう意図なんだ」と分かってスタートできたらもっと効率がいいと思いますけど。
中山)だけど、そういう日本最高のコルぺティトアと一緒に仕事をやっているということの大きさというのも一方ではありますよね。
佐藤)あります。オペラはドラマですから、言葉と音楽とが一体となっているわけです。半分しか分からないとそれは作品にならないんです。ピアノでやればやるほど、それこそオペラでは、オーケストラがあって、照明があって、共演者がいてといういろんな要素が助けてくれますけど、それが彼女ひとりと私だけの時間なのでよりはっきり出ると思います。
大分県立芸術文化短期大学へのメッセージ
佐藤)地域というのはとても大事だと思うんですね。先日も話題になったんですが、地方から東京の音楽大学に4年間、子どもを勉強させるとしたらどのくらいお金がかかるのかという話になった時に、一人2千万円くらいかかるっていうんです。そんなの、とんでもない額ですよね。親は大変ですよ。教育というのはそういうものではなくて、地域に根ざしたものであるべきだと思うんです。今は、少子化になって学校経営のことも大変だと思いますが、学校の独自性、教育方針であるとか、システムだとか「こういうものがうちの大学のモットーです」といったものを明らかにしてキラリと光っていくということが大事なんじゃないでしょうか。
中山)いいお言葉を頂きましてありがとうございます。「キラリと光る」という言葉は、僕がいつも言っていることで、奇しくもそれが一致しました。芸短大は規模としては学生が千人弱しかいない、非常に小さなキャンパスです。それでも「キラリと光る大学になれるんだ、なろうよ」と僕は言い続けているんです。今、同じ言葉を聞けてすごく我が意を得たような気持ちがありますね。
佐藤)大き過ぎるというのは、本当によくないと思いますよ。一人ひとりに対していかに細やかに指導が行き届いているか、人を大事にするってとても重要なことなんです。そういう時代にやっと私たちも目覚めたというか、経済的にもこんな時代を迎えて、まさに芸術が人間にもたらす力が問われる時代じゃないかと思います。私はバブルの頃に大がかりな作品だとか、お金をかけた舞台に出してもらって幸運でしたが、でもその時は気がつかないんですね。あとになって初めて、途方もないお金がかかっていたんだってわかりました。
中山)確かにそういう時代がありましたよね、冠がついたイベントだったりして。
佐藤)反対に今こういう時代だからこそ本物が問われると思います。余分なものが全部そぎ取られた時に何が残るかと考えると、やっぱり光っているもの、それも何が光っているのかということでしょう。
中山)光るものがそこに育てば僕もやりがいがあるなと思います。貴重なお話をありがとうございました。
森島) ありがとうございました。
佐藤)ありがとうございました。リサイタルには芸短大の行天先生にも出ていただきます。楽しみにしてください。
中山)いいお言葉を頂きましてありがとうございます。「キラリと光る」という言葉は、僕がいつも言っていることで、奇しくもそれが一致しました。芸短大は規模としては学生が千人弱しかいない、非常に小さなキャンパスです。それでも「キラリと光る大学になれるんだ、なろうよ」と僕は言い続けているんです。今、同じ言葉を聞けてすごく我が意を得たような気持ちがありますね。
佐藤)大き過ぎるというのは、本当によくないと思いますよ。一人ひとりに対していかに細やかに指導が行き届いているか、人を大事にするってとても重要なことなんです。そういう時代にやっと私たちも目覚めたというか、経済的にもこんな時代を迎えて、まさに芸術が人間にもたらす力が問われる時代じゃないかと思います。私はバブルの頃に大がかりな作品だとか、お金をかけた舞台に出してもらって幸運でしたが、でもその時は気がつかないんですね。あとになって初めて、途方もないお金がかかっていたんだってわかりました。
中山)確かにそういう時代がありましたよね、冠がついたイベントだったりして。
佐藤)反対に今こういう時代だからこそ本物が問われると思います。余分なものが全部そぎ取られた時に何が残るかと考えると、やっぱり光っているもの、それも何が光っているのかということでしょう。
中山)光るものがそこに育てば僕もやりがいがあるなと思います。貴重なお話をありがとうございました。
森島) ありがとうございました。
佐藤)ありがとうございました。リサイタルには芸短大の行天先生にも出ていただきます。楽しみにしてください。
◆◆◆
(注)コルぺティトア:歌劇場において、歌手の歌の面からの役づくりを行うピアニスト。たんにオーケストラの代わりをするだけではなく、歌手の発声、発音、表情づくりなど、多岐にわたるアドバイスをする。